こどもが覗き視る世界

hygrometry2006-02-05



空き屋の周りを囲んでいた草むら、駅の歩道橋裏の物陰、
子供の大きさなら入れそうな下水道のトンネル、
小学生の頃そういう場所へ仲間と探検した記憶は今でも鮮やかに残る。
そこには大抵、いけないものが色々と捨てられてあって子供の冒険心をかき立てた。
なにか得体の知れない怖さ、自分たちが知り得ない大人達の世界を
覗き見ているのだということが感じられて単純な楽しさとは別の興奮があった。


子供はそういうちょっと悪いことに首を突っ込むことで
その時代の社会を敏感に感じ取るのではないかと思う。
親や学校の先生が語る、幸せなこの世界の裏に潜む生々しい現実への突破口として。
実際に今考えてみると、私が子供だったころ、
ちょうどバブル全盛から崩壊にかけての時代というのは、
まさに駅裏の自転車置場の影に落ちていた、
あの膨大な大衆雑誌の量が指し示していた時代だったのかと思う。


今、私の地元では家々が立ち並び草むらもなくなってしまったし、
駅もきれいに補修されて歩道橋下もすっかり殺風景となっている。
隠された場所というか、いわゆる路地裏の世界のような場所は
ほとんど市の管理によって整備されてしまっているようだ。


当時、痴漢おじさんという存在の怖さを私の学校では教えられたし、
小学生の誘拐事件というのも全国で騒がれていたので
ああいったあやしい場所をなくすのは当然の流れだったのだろう。
そして自分が成長して行くに従ってどんどん町はきれいになっていった。


ただ、不謹慎な話だがそれはそれで寂しいような気がしている。
のっぺらな町というか、怖さと優しさのコントラストが見られない町というのは
どこかつまらなく、刺激がない。
いつの時代も、子供には押さえきれない暴力性というものが確かにあって、
その爆発的パワーを何らかのかたちで開放するものだとおもう。
悪いことが良いことだとは思わないが、
負に向かう力への強さというのを知ることは大切だと思う。
善と悪の振れ幅の最大値が社会の規枠を測る物差しとしては重要なのではないか。


今、子供達はネットを通してそういうことを知っているのだろうか。
ディスプレイに映し出される言葉、画像、映像によって。
だとすると今の子供が感覚的に欲している武器は言葉なのかもしれない。
大人達が語る言葉を敏感にキャッチして彼らはそれを調べているのだろうか。


そうして今の子供には、いかに危険なところにいくことが出来る勇気が必要なのではなく
いかに世界を広げることのできる知識というのが必要とされているのかもしれない。


それはそれでとてもスマートでいいと思う。
なんというか実際世界もそういう風に向かって来たと思うし。
でも肉体的なものが優位にあった世界がやはり私にとっては原風景にあるので、
本当にそれでいいのだろうかという思いもある。
そういうところでこの先、意識の違いが生まれてくるんだろうな。
どの世代の人間も向き合って来た現実なんだろう。


あ〜、あの頃世界をかいま見たときのような新鮮な気持ちでいつの時代も感じられたらいいのにな。