文がもたらす平静


なにか心の奥にイライラしたものを抱えたときや、
吐き出してしまいたいものがあるのにそれを出来ないときというのは、
ひどく言葉に詰まるものだ。
誰かと話していても、どうも相手との会話は話半分で
自分の心のうちで声にならない葛藤を続けてしまう。


例えば、ある一貫した姿勢で毎日文章を書いている人は、
そういう状態のとき、ちょっと気を抜くと奥にある感情を
安易に出してしまいがちになってしまう、という体験を一度はしたことがあるのではないか。
毎日という更新頻度を保ちながら、
常に変わらない己との距離で文章を形にすることは、想像よりもずっと難しい。


吐き捨てられただけの言葉には、エネルギーそのものはあるけれど
それを受け取った人間との対話が成り立たない。
文章という形にするならば、相手に伝えるということを意識しなければならない。
それには自分を客観視する、引いてみる、ということが必要になるだろう。
興奮しているときには一番いじらしい作業かもしれない。
けれども、それが出来たなら、ひとつ大きな山を超えることができるのではないだろうか。
伝えたいことが文字に表されたとき、
それは自分の中でひとつの一般性のある問題として意識することが出来るからだ。


すこし堅い言い方かもしれないが、新たな自我が形成されるとでもいえばいいのだろうか。
これからも起こりうるであろう状況における自分なりの解答がつくられるのである。


人間の感情は自分で考えるよりも複雑なものであると思う。
だからこそ、これほどまでに言語や芸術が発達してきたのだろう。
単に感情に任せただけの言葉は、そのバリエーションも少なく、
言葉というよりもむしろ発音が重視された、『声』であり『身体的』なものといえるのではないか。


私もイライラしたときには、運動が一番の発散法だとは感じている。
思いっきりからだを動かし、ひとつのことだけに一心不乱になることが心地よい。
ただ、上に述べたようにそれとは違う次元で、
文章を書くことによって平静を得る、ということも最近では重要だと感じている。