感じてないんだから


人とのコミュニケーションにおいてわざと大げさな反応を返していると、
あとあと自分にそのうさんくささがつきまとってくるんじゃないだろうか。


本当は大して感動もしていないことに相手に気を使うという理由で、
あたかも感動したかのように振る舞っているとそれは意外とクセになってしまう。
その習慣は、本当に何かを評価しようというときにじゃまなフィルターとなって立ちはだかる。


いつも感動しているふりをしている相手に、自分の本心を見せるのは決断がいるし、
そもそもその時点で自分独自のこだわりや感性を消失している恐れがある。
相手が喜ぶであろうリアクションに、いつも期待通りに応えていると、
自分もいつの間にかよくわからない常識のようなものに従った人間になってしまうものだ。


もちろん集団で生活する社会にみんな属しているのだから共通知のようなものは必要だ。
けれども、良い意味で、'場を読めない人間'にみんなどこかでなるべきだと思う。


みんながみんなそうなっては、もちろん人間社会はうまくいかないだろう。
だから、すべての人とのかかわり合いでそうなるべきではなくて、
自分が属する社会のどこかでそうなるべきだ。


感じないことは感じないでいいし、ありもしなかったことをことさら大げさにする必要もない。
むしろ他人のそういった無感動な部分になぜか興味がわくこともあるのだから。
好きと嫌いはつくづく表裏一体なんだと感じる。


これからも、このブログでは淡々と日々の思考を記録していきます。