自然への目


最近私はこのような日記を書いていて、
毎日周りの自然の変化に注意するようになった。
季節というものも、今までより細かい枠組みで捉えるようになった。
また、季語や自然にまつわる言葉を書き出すたび
はるか昔の人たちのことを思い浮かべてしまう。
彼らも私と同じように思ったのだろうか、などと。


時間軸を考えたとき、当然、私から近い過去と遠い過去がある。
例えば私の祖母の若い頃が近い過去で、何代も前の先祖のだれかの若い頃は遠い過去になる。
こう考えると私、祖母、ある先祖の一人、が生きた世界は
それぞれずいぶん違うように思える。


しかし、こと自然というものに目を向けたとき、
私たちはみんな同じ場所にいるのではないだろうか。
自然は何百年という単位を考えても、そうは変わっていないはずである。


はるか昔の人もそう遠くない昔の人も同じように感じていたはずだ。
少なくても、私を含め、みんなが自然に対して対等な立場であるはずだ。
もしかしたら、わたしが言葉には表せないが、確かに感じている、ある感覚を
過去のだれがしかは、何らかの言葉にしているかもしれない。
言葉が感性の先にあることはないと思う。
感じたものと言葉は同じく存在していて、
それをつなぎ合わせるのがどこかの誰か、ということだけなのだと思う。
そこに時間という存在は、けっして介入できないのではないだろうか。


とは言っても、現代に生きる私たちは、
自然に対する言葉において、なにか新しいものを生み出しているのだろうか。
そのほとんどが過去のものを受け継いでいるだけじゃないだろうか。
それどころか、受け継ぐことも出来ず、失ってしまった言葉もあるかもしれない。


文明という存在によって自然へ触れあう機会はどうしても減少してしまうのかもしれない。
しかし、一度外に出てちょっと自然に目を向けてやれば、
そこには今も昔も変わらない自然との対話ができるはずだ。


私は、自然に対する感性という面において、時代にとらわれない普遍性をもっていたい。
過去の人が感じたことを当たり前のように同じく感じたい。
とにかく自然に対してどの時代のどの人間とも同じ条件をもって接したい。


すると、あたりまえだが、私も自然の一部であるのだなと思った。