創造と発見


自分で何かを創造したという記憶はほとんどない。
残念ながら、ほとんど形のない状態から何か新しいものを
完成させたということはないのではないだろうか。


こんなものは今まで見たこともない、というものをつくり出す人間は少ないけれど確実にいる。
自分がそういう能力に対してコンプレックスを感じるようになってから、
そういった人間に対して敏感に気づくようになった。
そしてなにが自分と違うのかということを考えるようになった。


見ているとそういう人間は結局自分の理解できるものではないということがわかる。
自分にないなにかによって生み出しているから。
それはなにによるのだろうか。
感性、才能などと言ってしまうのはくやしいけれど、その言葉が一番適当のような気がした。


そのうちにそういう奴らはぜったい自分のように人を気にしないよなぁと思い、
そいつらがなにを考えているかはわからないけれど、もういいやという風に考えるようになった。


次に自分が出来ることは何だろうと考えた。


自分がこれまで学校や遊びではどういったやり方でやってきたのだろうか。
記憶のある段階から考えていくと、俺のやり方は大体が同じ方法だったような気がする。


なにかに対して取り組む時に徹底的にいわれたやり方をきれいにやり通す。
自分でそのやり方を消化してその方法にそって処理していく。
いわれたやり方に愚直に従い、崩さずきれいにつかっていくことが多い。


マニュアルやシステムに対しては時間をかけて正確に覚えていくほうだ。


そういった自分が創造という行為にたいして挑むときにはとてつもない恐怖感がある。
なにしろ基本となる武器の使い方さえ千差万別なんだから。
どっからどうやっていいのかわからない。
何から手をつけていいのかわからない。


そんなことは気にしないで自分の好きなようにやってみなよという言葉はいつも言われる。
俺は思う。『こわいのだ。いまそこに浮かび上がる得体の知れないものがわからないから。』
意図しないものを形にするという行為に反射的に恐れを抱いている自分がいる。


今自分がしていることなんて、すでにある何かを幅広く知って、それを選んで、まとめるという作業だ。
過去やそこらに転がっているものをきれいに並べてさも売りもののように見せているに過ぎない。
しかもそうするならもっとましにやれとでもいえるやり方で。


創造という行為なんて俺には最もおこがましい行為だ。


しかし、もしかしたら発見ならばできるかもしれない。
創造と同じくらいの価値をもつ発見なら。
よく見る、観察する、経験する、実験する、これならば俺にも出来る。


俺が発見したもので誰かになにかを創造してもらえばいい。


きっと世の中はそうなっているはずだ。