のび太の引き出しの奥


ネットという場で匿名に近い形で言葉をやり取りできる今の時代は、
そとの世界での顔の見える生の人間の一対一のやりとりにうんざりしているのかもしれない。
買い物に行ってもあらかじめネットで調べていたものを買うので店員にいちいち説明されるのも
いやだという人もいるし、ネットだけで買い物を済ませてしまう人もいる。


以下だらだら長く書いてしまったので興味があれば見てください。




安さを追求すればネットの通販やオークションがよいのかもしれない。
品物の情報だってネットの掲示板や口コミ情報でかなりものがつかめる。
だから店には現物を確かめにいくだけのために来ているという人もいるだろう。


でもそういった現代人にいま爆発的に人気がでているツールがこのブログだという。
まいにち俺もここになにかをかいていて感じるのだけれど、
結局この行為の奥底の動機にあることはどこかで人とつながりたいという意識だ。
あまりそういったことはださないけれど、そういった意識はやはり奥底にあると思う。


べつに俺は特別変わった意識を持ってこのブログをはじめたわけじゃないのだから、
ほかの多くの人にもこのことが言えるのではないかと思う。


リアルでの一対一の接触を極力避けていても結局はネットでおなじものを求めてしまう。
そして自分という存在を認めてもらうという意味では格好の発信源であるブログというツール。


いま、携帯にしろメールにしろ文章がより口語化してきているし、
顔文字やAAなどのデジタル文書独自の表現が一般的なものとなっている。
普段我々は人と話す際のその内容はほとんどがたわいのないことで、
たいした意味なんてないことをはなしているけれど、
ネットでもそういったレベルでの意思疎通の距離感が求められているのであろう。


携帯が小学生でももっていることがさほどの驚きでもなくなった現在では、
子供の人間関係もますます複雑になっているに違いないと思う。
クラスメイトに電話番号やメールアドレスを聞くことでさえ俺がその年だったらひどく悩みそうなことだ。
そしてもちろんそういったことで、仲間はずれだと感じるような子が絶対にいるのだろうと思う。
携帯なんかは子供では扱いにくい個人情報だろうし、うかつにみんなに教えるもんでもないだろう。


なんと回りくどい世の中なんだと俺でさえ思うのだから、きっと親の世代にいたっては
もう理解不能な社会なんじゃないだろうか。
事実俺の親はネットはまったくつかわないし必要ともしていない。
それがなくて普通に生きてきた人だしなくても十分有意義に生活をしているようにみえる。


なにかあれば人に積極的に聞くし、たとえば旅行の予定を立てるときだって
実際に行き先に連絡していろいろ話を聞いたりして不備なく情報を得ている。
そうやって生きてきたから実際に直接電話をかけてなにかを聞くことのできる知り合いも多い。


正直俺はそういう生き方が本当にうらやましい。
けれどもおなじようにはなれないのだろうと思う。
育ってきたなかで経験した濃密な人とのふれ合いというものの量が圧倒的に違う。
誰かに何かを言って、その言葉に対してどういう反応が来るのかということにたいして
の経験が少ないからその行為自体に知識が少なく、それが恐れを生み出し接触を躊躇させる。


人間としての生命力に差があるのを感じざるを得ない。


いまや、これからの時代はよりいっそうそういう状況になるのだろう。
生身ではそーっと、そーっと互いにふれあうけれど、裏ではエッジのきいたやりとり。
だれもが裏の考えというのを共有化できる時代となる。


いまよりももっとネットが発達して携帯できる端末ですべてができるような世界、
まさにユビキタスの世界では人と人は以前のように生身での接触を取り戻せるようになるのだろうか。


もしそうなったならば、部屋の机のむこうにひろがる見えない現実は完全に捨てられるのだろうか。