傍観者としてのいじらしさ
朝方、眠れないのでテレビをつけたら何とも運良くチャンピオンリーグ決勝が
放送されていた。
すっかり忘れていたことなので、「ラッキー!」という感じで、見入っていた。
試合はもうおなかいっぱいというかんじだった。
結果も俺がかってほしいというチームが勝ってくれて満足。
両チームは、みていて本当に興奮するサッカーをしていた。
得点シーンにはまったく無駄がみられず、
あらかじめ得点することが決まっていたかのように、
シンプルに美しい図形がピッチに描かれた。
得点が決まらない時間帯はどんなにがんばってもダメなのに、
どうして決まるときはあんなにスッと一つのチャンスで決まってしまうのだろう。
ピッチにいる選手全員が何か得体の知れないものによって操られたかのような
スペクタクルな試合であった。
ちょっとした流れが、あの場ではありえないほどに増幅して、
一瞬にして力の均衡がくずれてしまう。
あれだけの人間が同じ試合に注目している中での空気はおそろしい。
あっという間にその場にいるもの全員に伝搬して異様な雰囲気を醸し出してしまう。
宗教的なもの、神秘的なものの存在が生まれる場というのは、
もしかしたらこういうことなのかもしれないとも思われた。
しかし、そういった試合も見ているなかで、どこか別世界の出来事という
ことが思い浮かんで、嫉妬やねたみに似たいじらしさが常に胸に抱かれた。
試合終了間際になってもコンピュータみたいな精度をほこるジェラードの
ロングキックなんて日本人にできる日が来るのだろうか。
ボールをしっかり止めて蹴る範囲の規格がまるでちがうんじゃないか。
あんなサッカーどうやッたって無理だろ。
はたしてあれに対抗するサッカーを出来る日本人選手はでてくるのだろうか。
そうした選手があのような場にいれば、きっとこのいじらしさはなくなるのだろう。