自由大学

hygrometry2005-02-25


京都市の中心部で自由大学が、3/5に開講するようです。公共性をもち、完全に市民に開かれた大学を目指しているらしい。講師陣もボランティアで一回の講義は、ドリンク代と資料代のみで、料金は、学生が500円、一般の方が1000円になっています。内容は、社会、経済問題、映画、パフォーマンスアートについて取りあげられています。毎回約三十人の定員で、講師がテーマに沿って講義していくなか、参加者とも相互の論議をしながら進めていく方針がとられています。

日本の大学は、現状ではすべての者にたいして均等な機会を与えていないという考えがこの大学の設立の原点になっています。値上がりし続ける学費は、相対的に人々の所得や、物価に対して割合が高くなっており、金銭的な負担が増し、均等な機会が与えられているとは言いがたいというのがその理由のようです。

たしかにもっともな意見であると思います。いまの大学の学費を考えると、その金銭的な問題によって学びたくても学べない人がいるのが、現状でしょう。また国立大学の独立法人化によってさらに大学はその経営に金銭が重視されてきています。大学教育の理想としては、金銭をとるのではなく、すべての人に対し無償で行われるべきというのはすばらしいことであると思います。

しかし、いざ講義内容をみてみると、非常にアカデミックというか、実際の話、既に体系化された学問をあつかった小難しいもので、これからの大学のあるべき姿を考えた場合、首を傾げてしまう内容ではないかとおもいます。従来の文化系大学の講義がそのまんまのかたちで出ているような気がします。なにかオープンカフェというネーミングにも、昔の学生たちが喫茶店で交わしていた論議の再現を夢見ているような気がします。

現在、学生である私の意見では、このような光景を思い浮かべている人たちは、もはや幻想を追いかけているような気がします。やはり、このような光景は戦中や、戦後復興の時代だからできたのではないかと思います。それは、根底に流れていたものが共通の目的、未来であった時代だからできたことなのではないでしょうか。すくなくとも、この講義内容をみるかぎり、わたしには、世代間を超えた、様々なイデオロギーを持つ者が集まる様子は思い浮かべません。いま現在、未来に対して目的を持って動いている人が欲しい場はこのようなものではないとおもいます。したがって集まる人々は、ある程度予想されるのではないでしょうか。

そうは言いましても、もちろん、このような場が新しく生まれ、運営されていくことはすばらしいことであるとおもいます。しかし、三条御幸町という京都でも指折りの、若者の集まるスポットで行われるのですから、さらに先を見つめた内容があっても良いのではないかと思います。たとえば、現在、社会の一線で動いている企業が持っている本音を無償で公開できるような人が講義をしてくれるのであれば、議論は本当に有益な者になるのではないでしょうか。しかし、やはりそのような人の情報は本当に価値があるものなので、やっぱり無償で公開されることはむずかしいのでしょう。